親子の距離

先日、我が家の息子が「ウルトラマンだ!」と飛びかかってきました。我が家では息子たちは大抵私がいる場所の周辺をウロウロしています。部屋を変えてもダメ。気がつくと近くでウロウロしてて、そのうち私がやってることを遮ってきます。父親が家庭で特別な存在である、という感覚は全くありません(私もそういう自意識ありません)。

こういう「親しみ」というか、距離の近さは私と私の父の間にはありませんでした。私の母のがもっぱら育児をしていた、ということもありますが、それだけではない距離感のようなものが存在したし、今もしています。

これが私の親世代の家族、となると更に違ってきます。例えば私の母の実家ではそもそも親は子供の養育を直接してなかったようです。養育係は乳母であり、親はまた別格のポジションだった。特に父親は特別な存在だったようです。

子供が学校などに出かけるとき、親と対面し、正座して「行って参ります」とお辞儀。帰宅時も親が玄関に出てきて、子供は「ただ今帰りました」とやはり正座でお辞儀をする。朝は早朝6時前に起床し、庭と家の掃除をして、それから朝食だったそうです。また父親は完全別格な存在で、子供が歯向かうなど可能性として全くあり得ない雰囲気だったと。この話は母から何度も聞かされ、必ずその後に「だからお前は楽なんだ」と続くわけですが、実際凄い環境、別世界だと聞きながら思ってました。

そういう環境に生まれ育った母から見て、母の祖母(私の曾祖母)は何か人を寄せ付けない異様なオーラ、緊張感を周囲に与えてたそうです。非常に厳しい躾を受けてきた人らしいと。もうここまで行くと現代の我々と「同じ人間」と定義しないほうがいいんじゃないか、と思ってしまいます。

もちろん時代が違っても家族のあり方は様々だったと思いますが、今の我々が「家族」という言葉から自明視しているような親子関係が、そもそもちょっと昔には無い家族が結構存在した、ということは明らかです。恐らく戦後の高度成長期以降に今我々が考える家族像が確立したのではないでしょうか。

今、その核家族の前提条件である、「終身雇用の夫とその扶養」という構成が崩れ始めてます。我が家もそうですが、夫婦共働きで保育園を利用している家庭はますます増えそうです。そうなると、旧来の家族イメージに合わせようとするのは無理があります。父親、母親のイメージも変化を強いられるでしょう。しかし一方で典型的核家族イメージの呪縛もあり、それとの葛藤もある。今は新しい家族形態への模索期、迷いの時期かも知れません。それは取りも直さず親子の距離感の模索でもあります。

この過程の行き着く先はどういう家族形態を生み出していくのでしょうか。旧来の「家」の重要性は低下し、保育園などの社会的施設がその代替をするようになっていくのか。それとも大きくゆり戻しがあるのか。ただ、「子供を護る」場はまだ当面必要でしょう。つまり、路上生活で子供は育たない。絶えず変化する社会の動きとは異質な、動かない、子供が試行錯誤して生まれ持つ成長力を発揮できるよう待ってくれる、そういう「護る場所」は必須です。

「護る」ためにはどうすればいいでしょうか。誤解を恐れずに言えば、私は子供を「理解」しないことが大事だと思ってます。「理解」は理解する者の中へ子供を取り込んでしまう。それでは子供は護られません。仕事の場では逆に「理解」することで合理的、効率的な行いを可能にします。しかし、子供が育つ場を効率化すれば逆に育つことができなくなる。社会と家庭はそこが決定的に違うと思います。

「理解」しない距離感。親子の関係、距離を「理解」してしまわないこと。これが子供の自由を護り、育つことを可能にするのじゃないか。私は「父親として云々」の前に、子供がウルトラマンになって飛びかかってくるのを、面倒くさがらず、「そういうもの」として受け止められるようになりたい、そう思ってます。

新生児考 - 子供成長記(1)

先月、我が家に第3子が誕生しました。新生児と生活するのは3回目となりますが、改めてその姿を見て多くのことを感じさせてくれます。子供の成長はあっという間で、新生児時代のことで忘れてしまうことも結構あるので、よい機会なので少し文書で感じたことを残しておこうと思いました。できれば定期的に成長の様子を記していきたいと思ってます。

今、新生児は生後1ヶ月ちょっとです。何と2200グラム程で誕生。かなり小さな赤ちゃんでした。赤ちゃんは誕生後一時的に体重が下がるのですが、その時は2000グラムぐらいまでになりました。

でもその後は元気よくオッパイ飲んで、先日の検診では3300グラム。体が1/3以上大きくなったわけで、凄いものがありますね。生まれた時は痩せてる感じで少し心配でしたが、現在ではプクプクして赤ちゃんらしくなりました。抱っこ好きで寝てる時以外でベッドに置くと直ぐに泣き叫びます。上の息子たちの時も不思議でしたが、抱っこすると泣き止む、というのは何でしょうか。しかも抱いてても座ったりしてるとダメ。立って歩き回らないと満足しないようです。

新生児は私の見る限りでは「自分」というものは無さそうです。空腹や睡眠その他の身体的な動きそのもの、というのでしょうか、ある個人が欲求を持って振舞う、という言い方が当てはまらない時期、それが新生児だと思います。

だからでしょうか、新生児はその身体の小ささとは別に、何か非常に神秘的な、危うい雰囲気があります。新生児と向かい合うことは、それ自体で非日常です。3歳の次男になると、もう完全に大人と同様の「生活」の内部に生きてます。例えば「お腹が空いた」と言う。当たり前ですが、これは「(僕は)お腹が空いた」です。そして居間のテーブルの上に食事が置かれ、それを食べれば満たされる、という一連の生活世界の構造を知ってます。しかし、新生児は空腹そのものになる。抱っこを求めて泣くことにしても、「僕の相手をしてくれ」という表現はどうもしっくりきません。

新生児の時期が「楽園」であるかどうかは分かりません。勝手な想像ですが、母親の胎内から出てきて色々苦労や不快な思いでいっぱいなんじゃないか。しかし、この「自分がない」という状態は、まだ完全に楽園から追放はされてないと言えるんじゃないか。聖書の「創世記」では知恵の木の実を食べた後、アダムとイブが裸であることを恥じるという場面がありますが、そういう自意識が皆無なのが新生児です。そして、この自意識によって自己自身と無限に関わり続ける(アダムとイブが服を着るような)ことが、楽園から切り離された人間には生涯付きまとい、失われた「楽園」は遥か彼方に幻想として立ち現れるようになる。

いわゆる「幸福を求める」という、何か求めるべき対象が立ち現れるということ。これは「自分」の成立と期を一にしている。新生児はそういう対象をそもそも持ちません。ところで、一般に「大人」の意味は、こういった「幸福」を直接要求することを断念した存在、と捉えられると思います。同時に、「自立」している存在とも言われる。直接的な幸福を断念し、「自分」で自己自身を律することができる存在。しかし、「幸福」を求めて生成したはずの「自分」がその成長の過程で幸福を断念するのはおかしくないでしょうか。「幸福」あっての自己であるならば、「自立した自己」は形容矛盾ではないでしょうか。

しかし、現実に失望は存在します。だとすると、「失望」は自己の危機と言えます。子供はこれを直接打ち消そうとする。一方で大人はそういう直接的振る舞いが抑制できる存在とされます。大人はだから、この失望を「将来の」希望に置換できる存在と言えるんじゃないか。できるだけ遠い将来の幸福の約束、「希望」として。大人の自己は、「未だ」幸福でない、「希望」を持つ自己、と言えます。

希望をどう持ち続けるか、というのは様々でしょうが、どうしても避けられない難所があります。それは「死」の問題です。様々な処世訓としての「希望の持ち方」はあくまでもこの世に生きていることが前提ですが、「死」はその圏外にある。「幸福」が「この世」の幸福だとしたら、死はそれを帳消しにしてしまう出来事です。だとすると、「自己」は「死」を前にして崩れ去ってしまう。多くの宗教で「あの世」が語られるのは、「いかにして自己を維持するか」から来ているのではないか。また、何故か日常生活の中に没頭しているとき、自らの死を考えることは難しい。持続した将来を前提にしています。

さて、新生児の話に戻りますと、新生児は「自己」が無い。であるからして当然「希望」を持たないし、必要も無い。「私の空腹は将来満たされるだろう」ではなく、「(私=)空腹である」です。これは、非常に「死」に近い地平にいると思います。新生児と対面している時に感じる危うさは、彼ら新生児が「死」に近すぎる、何かの拍子にフーっと本当に「あの世」へ行ってしまうのではないか、という感覚にも思えます。

同時に、新生児は不思議な解放感のようなものを与えてくれます。これも新生児が「死」に近いことと関係しているんじゃないか。フロイドではありませんが、「自己」というのは日常の様々な問題を引き受けて色々辛い。しかし、「死」の地平ではそういった出来事から解放されます。新生児は「私は未だ私ではない」によって、「自己からの解放」の予感を与えてくれます。

「自己」が幻影としての失われた楽園、永遠に到達しない希望としての対象を求める運動だとしたら、もともと解の無い問題を解こうとしてるようなものです。新生児の存在はそのことを浮き彫りにしてくれます。人間の成長は、新生児の世界から抜け出て遠く旅をしているように思い込みながら、実は堂々巡りをしているだけなのではないか。

「自己」が当ての無い旅だとして、果たして人間は、それ以前の「私は未だ私ではない」に至ることは可能でしょうか。その生物的な死以前に、新生児のような「死」の地平に至り、「自己」の問題を―解決するのではなく―解消することは可能でしょうか。可能だとしたら、いかにして?、そしてその契機は何でしょうか?。更に、それは文字通りの新生児への退行であって、人間にとって破滅的なことなのでしょうか?それとも、「私は未だ私ではない」と同時に「私は既に私である」存在であることが可能なのでしょうか?

目の前の新生児を見ていると、彼がどうも答えを知ってるらしい、と思ってしまうのですが、当然一切答えてはくれません。いや、むしろその「沈黙」が答えと言うべきなのでしょうか。

社会化され続ける「私」 - Twitter雑感(2)

以前、「Twitterは都市的」という記事を書きましたが、これはTwitterの環境についての話でした。では、この環境に身を置いてつぶやいている個々人にはどのような影響があるのでしょうか。今回はこの点について思いつくまま考えてみたいと思います。

● プライベートはパブリック

Twitterはつぶやきの場ですが、一方でつぶやきがWeb上で公開されるのが基本です。非公開にも機能的にはできるのですが、全体としてそうしている人は少ないようです。自分の独り言が不特定多数の目に晒される仕組みを多くの人が利用するというのは、一見妙な感じがしますが、少し考えるとそうでもありません。

よく「公的」という言葉の対義語というと「私的」と言われますが、本当に個人的事象というのは公的であることと対立しません。例えば「プライベート」というのはこれ自体が公的に成立するものですし、公的に守られなければ侵害される可能性があります。同じように「個人的体験」とは公的なものとの関係によって成立し、その事象の記述はそれ自体が公的なものに向けて語られ、流通するのです。

では「公的」なものと意味的に対立するのは何かと言うと、私は「共犯的」なものだと思います。つまり、1人ではなく2人以上の人間の間で発生する心理的合意、というよりも「合意したい心理」と言った方がいいでしょうか。重要なのは、「合意」と言ってもメンバー全体を外から制御する契約のようなものは無いという点です。ですから、この関係は常に不安定で、裏切られる可能性を秘めており、相互不信的です。

また、共犯的関係ではその構成員の外側にいる人間からの視点は排除する、という特徴があります。つまり、密室談合的でなければなりません。更に、ここには「プライベート」が無い。契約不在、相互不信的ですから常に相手の「本心」をどこまでも知りたい、勝手なことは許したくない、逆に自分のプライベート的なものを犯されたい、共有されたいという欲求がベースとなります。

では、共犯的関係を結ぶのに必要なものは何でしょうか。相手を信用できないし、密室談合的で外側から約束を強制する契約は無いとすると、その関係は早晩破たんしそうです。私は、そこで必要になるのが「場」と「ルール」だと思います。談合が行われるには、仲間であることを示す肩書、会議参加など何らかの形で「場」を共有するということが重要で、そこで「場」に向けた発言、振舞いとその共有が行われる。また、「場」が壊れないよう暗黙的な形式的ルールの順守が求められる。もっと言えば、共犯的関係とは「場」そのものであり、構成員の個人的体験は消えうせ、「場」のみが存在する状況、と言えると思います。

● 匿名掲示板と共犯の場

インターネットとよく結びつけられる言葉として「匿名性」があります。これは「2ちゃんねる」などの掲示板イメージと結びついて、人々が何ら責任、リスクを負わずに好き勝手なことを発言する、という意味で扱われることが多い。私は2ちゃんねるのような掲示板は基本的に上記の共犯関係を求めて集う「場」だと考えてます。

2ちゃんねる上ではもちろん本当の「密室談合」のような実利的なことを成立させるのは難しいでしょう。また、真面目な意見や情報提示などもあります。しかし、一般にこの掲示板に集まる動機は何かと言うと、掲示板という「場」の中で共犯的心理を満たしたい、ということではないでしょうか。そこで記述される言葉は記述の内容よりも発言者の共犯願望が先に立っており、扇動的で、否定されると一転して攻撃的になったりします。集まる人々は互いに「共犯的言説」を差し込んで「場」の動きの一部を形成したいのであって、個別の言説を述べるのではありません。ルールについては掲示板システム自体がその役目をし、細かな「慣習」がそれを補完します。

だからこそ、このような掲示板では匿名が大半になるのだと思います。「共犯的心理」で成立する掲示板では非個人的な「場」としての言説しか存在しないのですから、そのような場所で実名で何か語ることは全く奇異な行為となってしまいます。ここでは匿名であることが自然なのです。

匿名で共犯的願望に任せて好き勝手に書くと、最も個人的意見が出てくるように見えて実は全く逆の結果となる。書いてる当人の個別性は消えうせ、「場」だけが残る。これが2ちゃんねるなどの匿名掲示板で見られる事象だと思います。

● 共犯的関係が成立しないTwitter

一方、Twitterはどうでしょうか。Twitterでは合意を成立させる「場」がそもそも共有されませんから、「共犯的」になろうにも不可能です。アカウントが実名であろうと偽名であろうと、そもそも共犯的発言ができないわけですから、そのつぶやきは「公的」にならざるを得ない。そして、この「公的つぶやき」というのが、つまりは個別的言説なのです。Twitter上では、環境としてそもそも公的-個別的な発言しかできないのです。

Twitterで実名が多い理由は、そもそも匿名で2ちゃんねる的に書きなぐるようなことができないので、偽名にする理由が無いケースが多いからではないでしょうか。偽名で2ちゃんねる的言説をつぶやき続けても、Twitter上にはその言説を共有化させる「場」が存在しません。そうなると、結果として実名で公共的空間に向けた言葉と同等な言説しか出てこなくなる。もちろん、いくら公的言説だとしてもそれが発言者の現実生活を脅かすことは多々あります。その点で偽名の意味はあると思いますが、偽名によって共犯的言説が促されることは無さそうです。

例えば、誰かをフォローしようとする。この人と共犯的関係になれそうだな、などと考えてフォローするでしょうか。可能性が全然無いとは言えませんが、相手は自分と違った関係性の中にいますから期待通りにはならないでしょう。逆に自分をそのような動機でフォローする人もいないし、それを求めることもできない。可能だとしたら完全に同じメンバで相互フォローすることですが、これはもうTwitterとは言えません。

● 社会化される「私」

Twitterでつぶやくということは、「場」のための匿名的言説ができず、共犯関係の願望は挫折させられ、結果として公的空間へ向けた個別的言説をすることです。共犯的な閉じた関係から公的な開いた関係に移行することを「社会化」と呼ぶならば、Twitterでのつぶやきは、語る「私」の社会化、と呼ぶことができるでしょう。Twitterでつぶやく個々人は、語るごとに「私」を社会化させ続け、社会化された「私」としての言葉の連なりを生成させていると言えるのではないでしょうか。

よく実社会で談合的行為が問題になることがあります。必ずその際に言われるのは、「オープンにすべし」です。システムとして参加者の言説を「オープン」にし続けるTwitterの仕組みには、実社会の談合行為をはじめとした問題を解決するヒントもあるかも知れません。

派遣・女性・自己責任

● 派遣でなければならないが、派遣であってはならない

10月7日の「クローズアップ現代」で、失業した後に助けを求めずに亡くなったり、路上生活になる30代の方々について取り上げてました。私がこの番組を見て非常に気になったのは、彼らがそのような状況の中にありながら「自己責任」をずっと感じ続けつつ、身動きが取れない状態になっていることでした。何故なのだろうかと。

日本は戦後ずっと、国内の人間は解雇が稀な正社員かその扶養、そのどちらかに属する、というのを暗黙の前提としてきました。もちろん母子家庭などでそこに属せない人たちは存在したわけですが、それはあくまでも例外であり、基本的に本人の意志があるならば上記のどちらかに属せる、とされてたわけです。しかし、クローズアップ現代で取材された30代のような非正規雇用の方々はこのどちらにも属してない人たちであり、例外と言うには現在余りにも数が多くなってます。

私は、彼らが「自己責任」を抱えながらうずくまってしまった理由は、彼らがこの雇用の建前上で行動することを要求される一方で、現実にはそこから外れざるを得ないところにあるのではないか、と考えてます。彼らは健康上の問題があるわけではなく、年齢も若い。そうなると上記の雇用に関する暗黙の前提からすれば「意志があるならば正社員になれる」ということになります。しかし、現実にはなれない。現在製造業派遣を中心として規制が行われようとしてますが、企業サイドは彼らを社員にする余裕は無い、と主張しています。

一方で派遣というポジションは賃金も上がらず、今のような不況の中では生活ができないケースが多くなってます。ところが、生活ができないならば「正社員になれば?」と言われる。バブル期のフリーターイメージなどが尾を引いているのかも知れませんが、非正規雇用になったのは、自分がそれを選択したらだ、という見方はかなり強いと思います。また、上記の路上生活に至ってしまった30代の方なども、同じように自分自身を見ているからこそ、助けを求めずにいるのではないか。

正社員の椅子は限られているのでなれない→正社員になれないと生活はできない→正社員になれなかったのはそう選択したから、つまり「自己責任」である。この二重拘束とも言える状況の中では、身動きが取れなくなってしまう人たちが出てきても全く不思議ではありません。

● 女性でなければならないが、女性であってはならない

同じことは今日の女性のあり方にも言えるのではないでしょうか。女性は出産や育児(こちらは本来男性も同じと考えるべきですが)のために正社員と同様には働くことが難しい。そうなると途端に「じゃあ主婦でパートでもやればいいだろ」と言われる。しかし主婦はそれ自体で収入がありませんから誰かに扶養されることになる。

ここでも、一般正社員イメージに合わせることはできない→正社員の扶養となる→扶養になったのは自分が選択したからだ、しかも働かずに食っていけてありがたいと思え、となる。逆に女性が普通の正社員と同等に働くならば、出産育児を断念しなければならないケースが大半だと思います。

よく専業主婦vs働く女性という形で対立的に見られたりしますが、これは上記の二重拘束を考えるとなぜそうなるのか分かります。専業主婦は「養われてる」と言われますし、働く女性は「働くのも育児も中途半端」、「子供より仕事?女性としておかしいんじゃないか?」などと言われる。どちらも既存の雇用体系の中で引き裂かれ、失われた片方の可能性を否定せざるを得ないのです。

● 新しい労働者モデルを

こういった禅問答的問題を突破するには、その問題が成立する土台を見なければなりません。ここでの土台とは、「日本人は正社員かその扶養に属する」という今となっては現実を反映してない建前であり、正社員こそは労働者の基本イメージであり、保護の対象である、という考えです。この建前に立てば、現在失職している派遣労働者たち、働く女性などは視野から外れて「いないこと」なってしまいます。つまり、まともな人間として扱われない。しかし、同じ人間として扱われてないのに「自己責任」を問うのはおかしいでしょう。

やはり、現状を全く反映してない働く人のイメージである「正社員かその扶養」ではなく、派遣労働者や働く女性のようなあり方も含めた新しい労働者像をベースに、諸々の制度を組み替える時に来ていると思います。

先日、派遣村村長だった湯浅誠さんが政府の国家戦略室に参加することになりました。既存の「正社員とその扶養」の枠組みに今の貧困問題を吸収しようとするのか、新しい労働者像を打ち立て改革の第一歩を踏み出すのか、私はそこが注目点だと考えてます。

議論が発散するSNS - Twitter雑感

Twitterを始めて少し慣れてきたので、Twitterとは何か、についてちょっとメモを書いてみたくなりました。

私は所謂SNSは全然やったことありません。mixiもはてなもアカウントすら持ってない。Blogは過去何度かやろうとして、一日で終わってます(笑)。

そのため、自分は他のSNSやBlogとの比較はできないのですが、Twitterで気がついた大きな特徴として「議論がしにくい、発展しない」というのがあります。これが実はTwitterの最も重要な特性の一つじゃないかと思い、ちょっと考えてみようと思いました。

まず、比較として通常の掲示板を考えてみたいと思います。掲示板では普通「お題」があり、そこに関心がある人々が集って自分の意見なりを記述していきます。参加者にはこの「お題」が共有されており、また参加者の意見も共有されています。

掲示板ではよく特定の参加者どうしで議論が発生し、また特定意見に対する反論が次々に別の参加者から出るなどして「盛り上がる」ことがあります。時に罵り合いや特定意見への罵倒が連発することもあり得ます。Blogの「炎上」と呼ばれるものも同様ですね。

しかし、Twitterではこれが発生しにくい。これはTwitterの仕組みに要因があると思います。その仕組みとは一言で言うと、

「自分のfollowによる関係性は共有されてない」

という点ではないかと思います。思いつくままに上記の仕組みから何が起きるか書いてみます。

1.テーマの非共有

掲示板ではその参加者は共通の掲示板、お題を見ているし、同じ関心を持つ人が集ってます。Twitterではお題を共有することが難しい。RTである問題について共有を図ろうとしても、他の全く違ったTL上に置かれたときに、同じようには扱われないでしょう。

2.持続が困難

Twitterの機能の中心は言うまでもなくTimeLineです。つまり時間軸上に展開するものであり、固定した「お題」のようなものがあるわけではない。そこに「関係性の非共有」が加わると、固定したテーマについて持続的に検討するということは難しくなります。TL上で「あの時に誰それの意見は〜」と持ち出すことはできません。掲示板「炎上」とは逆に、Twitterでは特定の問題あるpostがあっても、必ず発散して消えるようになってます。

3.外からの刺激

TwitterのTLを眺めていると、思わぬ意見や視点に遭遇したり、ニュースを知らされたりします。そこで今まで拘ってたことから別の事柄へ関心が移ってしまうことが多いと思います。Blogや掲示板ではずっと特定問題に固着する、ということがあり得ますが、これは関係性の共有からくるものだと思います。「関係性の非共有」によって、絶えず外からの刺激が発生し、特定問題へのめり込むことが抑制されます。しかもこれは自分だけでなく、followしている人、されている人全てが同様なのですから、やはりここでも議論はどんどん発散されることになります。

まだ色々あると思いますが、上記の特徴から連想するのは、Twitterは「都市的」だということです。SNSでは、ネット上に共同体的なものを作ってるのじゃないかと思います(よく知らないのですが(笑))。コミュニケーションを求めて集まるというのは、イコール共同体的なものを求めるということです。

Twitterでもコミュニケーションを求めて集うわけですが、常に共同体的なものが確立されないよう、「はぐらかす」仕組みになってると思います。これもやはり「都市的」です。

人間は誰かに向かって何か表現したいし、意識を共有したいと思う。しかし、これは突き詰めていくとどこかで破綻します。これがうまく回避されたシステムのTwitterは、少しだけ「都会的」物足りなさがありつつも、泥仕合にならない安心さがあると言えないでしょうか。「今のところ、Twitterは日本のウェブベースのメディアとして初めて実名が標準になりつつある(池田信夫)」のは、この辺の仕組みが貢献してるのではないか、と思います。