社会化され続ける「私」 - Twitter雑感(2)
以前、「Twitterは都市的」という記事を書きましたが、これはTwitterの環境についての話でした。では、この環境に身を置いてつぶやいている個々人にはどのような影響があるのでしょうか。今回はこの点について思いつくまま考えてみたいと思います。
● プライベートはパブリック
Twitterはつぶやきの場ですが、一方でつぶやきがWeb上で公開されるのが基本です。非公開にも機能的にはできるのですが、全体としてそうしている人は少ないようです。自分の独り言が不特定多数の目に晒される仕組みを多くの人が利用するというのは、一見妙な感じがしますが、少し考えるとそうでもありません。
よく「公的」という言葉の対義語というと「私的」と言われますが、本当に個人的事象というのは公的であることと対立しません。例えば「プライベート」というのはこれ自体が公的に成立するものですし、公的に守られなければ侵害される可能性があります。同じように「個人的体験」とは公的なものとの関係によって成立し、その事象の記述はそれ自体が公的なものに向けて語られ、流通するのです。
では「公的」なものと意味的に対立するのは何かと言うと、私は「共犯的」なものだと思います。つまり、1人ではなく2人以上の人間の間で発生する心理的合意、というよりも「合意したい心理」と言った方がいいでしょうか。重要なのは、「合意」と言ってもメンバー全体を外から制御する契約のようなものは無いという点です。ですから、この関係は常に不安定で、裏切られる可能性を秘めており、相互不信的です。
また、共犯的関係ではその構成員の外側にいる人間からの視点は排除する、という特徴があります。つまり、密室談合的でなければなりません。更に、ここには「プライベート」が無い。契約不在、相互不信的ですから常に相手の「本心」をどこまでも知りたい、勝手なことは許したくない、逆に自分のプライベート的なものを犯されたい、共有されたいという欲求がベースとなります。
では、共犯的関係を結ぶのに必要なものは何でしょうか。相手を信用できないし、密室談合的で外側から約束を強制する契約は無いとすると、その関係は早晩破たんしそうです。私は、そこで必要になるのが「場」と「ルール」だと思います。談合が行われるには、仲間であることを示す肩書、会議参加など何らかの形で「場」を共有するということが重要で、そこで「場」に向けた発言、振舞いとその共有が行われる。また、「場」が壊れないよう暗黙的な形式的ルールの順守が求められる。もっと言えば、共犯的関係とは「場」そのものであり、構成員の個人的体験は消えうせ、「場」のみが存在する状況、と言えると思います。
● 匿名掲示板と共犯の場
インターネットとよく結びつけられる言葉として「匿名性」があります。これは「2ちゃんねる」などの掲示板イメージと結びついて、人々が何ら責任、リスクを負わずに好き勝手なことを発言する、という意味で扱われることが多い。私は2ちゃんねるのような掲示板は基本的に上記の共犯関係を求めて集う「場」だと考えてます。
2ちゃんねる上ではもちろん本当の「密室談合」のような実利的なことを成立させるのは難しいでしょう。また、真面目な意見や情報提示などもあります。しかし、一般にこの掲示板に集まる動機は何かと言うと、掲示板という「場」の中で共犯的心理を満たしたい、ということではないでしょうか。そこで記述される言葉は記述の内容よりも発言者の共犯願望が先に立っており、扇動的で、否定されると一転して攻撃的になったりします。集まる人々は互いに「共犯的言説」を差し込んで「場」の動きの一部を形成したいのであって、個別の言説を述べるのではありません。ルールについては掲示板システム自体がその役目をし、細かな「慣習」がそれを補完します。
だからこそ、このような掲示板では匿名が大半になるのだと思います。「共犯的心理」で成立する掲示板では非個人的な「場」としての言説しか存在しないのですから、そのような場所で実名で何か語ることは全く奇異な行為となってしまいます。ここでは匿名であることが自然なのです。
匿名で共犯的願望に任せて好き勝手に書くと、最も個人的意見が出てくるように見えて実は全く逆の結果となる。書いてる当人の個別性は消えうせ、「場」だけが残る。これが2ちゃんねるなどの匿名掲示板で見られる事象だと思います。
● 共犯的関係が成立しないTwitter
一方、Twitterはどうでしょうか。Twitterでは合意を成立させる「場」がそもそも共有されませんから、「共犯的」になろうにも不可能です。アカウントが実名であろうと偽名であろうと、そもそも共犯的発言ができないわけですから、そのつぶやきは「公的」にならざるを得ない。そして、この「公的つぶやき」というのが、つまりは個別的言説なのです。Twitter上では、環境としてそもそも公的-個別的な発言しかできないのです。
Twitterで実名が多い理由は、そもそも匿名で2ちゃんねる的に書きなぐるようなことができないので、偽名にする理由が無いケースが多いからではないでしょうか。偽名で2ちゃんねる的言説をつぶやき続けても、Twitter上にはその言説を共有化させる「場」が存在しません。そうなると、結果として実名で公共的空間に向けた言葉と同等な言説しか出てこなくなる。もちろん、いくら公的言説だとしてもそれが発言者の現実生活を脅かすことは多々あります。その点で偽名の意味はあると思いますが、偽名によって共犯的言説が促されることは無さそうです。
例えば、誰かをフォローしようとする。この人と共犯的関係になれそうだな、などと考えてフォローするでしょうか。可能性が全然無いとは言えませんが、相手は自分と違った関係性の中にいますから期待通りにはならないでしょう。逆に自分をそのような動機でフォローする人もいないし、それを求めることもできない。可能だとしたら完全に同じメンバで相互フォローすることですが、これはもうTwitterとは言えません。
● 社会化される「私」
Twitterでつぶやくということは、「場」のための匿名的言説ができず、共犯関係の願望は挫折させられ、結果として公的空間へ向けた個別的言説をすることです。共犯的な閉じた関係から公的な開いた関係に移行することを「社会化」と呼ぶならば、Twitterでのつぶやきは、語る「私」の社会化、と呼ぶことができるでしょう。Twitterでつぶやく個々人は、語るごとに「私」を社会化させ続け、社会化された「私」としての言葉の連なりを生成させていると言えるのではないでしょうか。
よく実社会で談合的行為が問題になることがあります。必ずその際に言われるのは、「オープンにすべし」です。システムとして参加者の言説を「オープン」にし続けるTwitterの仕組みには、実社会の談合行為をはじめとした問題を解決するヒントもあるかも知れません。