新生児考 - 子供成長記(1)

先月、我が家に第3子が誕生しました。新生児と生活するのは3回目となりますが、改めてその姿を見て多くのことを感じさせてくれます。子供の成長はあっという間で、新生児時代のことで忘れてしまうことも結構あるので、よい機会なので少し文書で感じたことを残しておこうと思いました。できれば定期的に成長の様子を記していきたいと思ってます。

今、新生児は生後1ヶ月ちょっとです。何と2200グラム程で誕生。かなり小さな赤ちゃんでした。赤ちゃんは誕生後一時的に体重が下がるのですが、その時は2000グラムぐらいまでになりました。

でもその後は元気よくオッパイ飲んで、先日の検診では3300グラム。体が1/3以上大きくなったわけで、凄いものがありますね。生まれた時は痩せてる感じで少し心配でしたが、現在ではプクプクして赤ちゃんらしくなりました。抱っこ好きで寝てる時以外でベッドに置くと直ぐに泣き叫びます。上の息子たちの時も不思議でしたが、抱っこすると泣き止む、というのは何でしょうか。しかも抱いてても座ったりしてるとダメ。立って歩き回らないと満足しないようです。

新生児は私の見る限りでは「自分」というものは無さそうです。空腹や睡眠その他の身体的な動きそのもの、というのでしょうか、ある個人が欲求を持って振舞う、という言い方が当てはまらない時期、それが新生児だと思います。

だからでしょうか、新生児はその身体の小ささとは別に、何か非常に神秘的な、危うい雰囲気があります。新生児と向かい合うことは、それ自体で非日常です。3歳の次男になると、もう完全に大人と同様の「生活」の内部に生きてます。例えば「お腹が空いた」と言う。当たり前ですが、これは「(僕は)お腹が空いた」です。そして居間のテーブルの上に食事が置かれ、それを食べれば満たされる、という一連の生活世界の構造を知ってます。しかし、新生児は空腹そのものになる。抱っこを求めて泣くことにしても、「僕の相手をしてくれ」という表現はどうもしっくりきません。

新生児の時期が「楽園」であるかどうかは分かりません。勝手な想像ですが、母親の胎内から出てきて色々苦労や不快な思いでいっぱいなんじゃないか。しかし、この「自分がない」という状態は、まだ完全に楽園から追放はされてないと言えるんじゃないか。聖書の「創世記」では知恵の木の実を食べた後、アダムとイブが裸であることを恥じるという場面がありますが、そういう自意識が皆無なのが新生児です。そして、この自意識によって自己自身と無限に関わり続ける(アダムとイブが服を着るような)ことが、楽園から切り離された人間には生涯付きまとい、失われた「楽園」は遥か彼方に幻想として立ち現れるようになる。

いわゆる「幸福を求める」という、何か求めるべき対象が立ち現れるということ。これは「自分」の成立と期を一にしている。新生児はそういう対象をそもそも持ちません。ところで、一般に「大人」の意味は、こういった「幸福」を直接要求することを断念した存在、と捉えられると思います。同時に、「自立」している存在とも言われる。直接的な幸福を断念し、「自分」で自己自身を律することができる存在。しかし、「幸福」を求めて生成したはずの「自分」がその成長の過程で幸福を断念するのはおかしくないでしょうか。「幸福」あっての自己であるならば、「自立した自己」は形容矛盾ではないでしょうか。

しかし、現実に失望は存在します。だとすると、「失望」は自己の危機と言えます。子供はこれを直接打ち消そうとする。一方で大人はそういう直接的振る舞いが抑制できる存在とされます。大人はだから、この失望を「将来の」希望に置換できる存在と言えるんじゃないか。できるだけ遠い将来の幸福の約束、「希望」として。大人の自己は、「未だ」幸福でない、「希望」を持つ自己、と言えます。

希望をどう持ち続けるか、というのは様々でしょうが、どうしても避けられない難所があります。それは「死」の問題です。様々な処世訓としての「希望の持ち方」はあくまでもこの世に生きていることが前提ですが、「死」はその圏外にある。「幸福」が「この世」の幸福だとしたら、死はそれを帳消しにしてしまう出来事です。だとすると、「自己」は「死」を前にして崩れ去ってしまう。多くの宗教で「あの世」が語られるのは、「いかにして自己を維持するか」から来ているのではないか。また、何故か日常生活の中に没頭しているとき、自らの死を考えることは難しい。持続した将来を前提にしています。

さて、新生児の話に戻りますと、新生児は「自己」が無い。であるからして当然「希望」を持たないし、必要も無い。「私の空腹は将来満たされるだろう」ではなく、「(私=)空腹である」です。これは、非常に「死」に近い地平にいると思います。新生児と対面している時に感じる危うさは、彼ら新生児が「死」に近すぎる、何かの拍子にフーっと本当に「あの世」へ行ってしまうのではないか、という感覚にも思えます。

同時に、新生児は不思議な解放感のようなものを与えてくれます。これも新生児が「死」に近いことと関係しているんじゃないか。フロイドではありませんが、「自己」というのは日常の様々な問題を引き受けて色々辛い。しかし、「死」の地平ではそういった出来事から解放されます。新生児は「私は未だ私ではない」によって、「自己からの解放」の予感を与えてくれます。

「自己」が幻影としての失われた楽園、永遠に到達しない希望としての対象を求める運動だとしたら、もともと解の無い問題を解こうとしてるようなものです。新生児の存在はそのことを浮き彫りにしてくれます。人間の成長は、新生児の世界から抜け出て遠く旅をしているように思い込みながら、実は堂々巡りをしているだけなのではないか。

「自己」が当ての無い旅だとして、果たして人間は、それ以前の「私は未だ私ではない」に至ることは可能でしょうか。その生物的な死以前に、新生児のような「死」の地平に至り、「自己」の問題を―解決するのではなく―解消することは可能でしょうか。可能だとしたら、いかにして?、そしてその契機は何でしょうか?。更に、それは文字通りの新生児への退行であって、人間にとって破滅的なことなのでしょうか?それとも、「私は未だ私ではない」と同時に「私は既に私である」存在であることが可能なのでしょうか?

目の前の新生児を見ていると、彼がどうも答えを知ってるらしい、と思ってしまうのですが、当然一切答えてはくれません。いや、むしろその「沈黙」が答えと言うべきなのでしょうか。